還暦を迎えた私の思い出話

まずは28期還暦同窓会をオーガナイズしてこのブログを提案、運営している同級生の皆さんに感謝の意を送ります。

今回の投稿は、現在アメリカ合衆国のテキサス州に住んでいるソニアの提案と、ソニア同様に在日韓国人として日本で育った、もう一人のアメリカでの奮闘記を知ってもらえればと思ったのがきっかけです。

実は私も同じ時期に、ソニアとシンクロナイズするかのように日本を離れて海外生活を始めていたのですが、つい最近まで長く住みついたアメリカに、在日のそれも28期の同級生が住んでいることに気づかず、今回の同窓会をきっかけに知った時は大変驚きました。

私が日本を離れてかれこれ34年経ちましたが、同じ時代を日本で育ち、共通した体験を持つソニアの発見と繋がりは、頼もしく感じるし、これから先がとても楽しみです。

還暦を祝う年になって、人生の半分以上をニューヨークで過ごしていることに気付きましたが、もしあの時、日本政府が北朝鮮入国を許可していたなら、人生の辿り路が随分違っていただろうなと思いつつ、過去にさかのぼって当時を回想してみたいと思います。

小学校では民族舞踊を学び、中学ではディスコに夢中に

小学生のころ祖国訪問団第1号の在日芸術団代表の団員として選ばれて、学校の授業中に駆り出されて猛練習をさせられた体験は、今でも忘れられない出来事です。当時の私は、小学2年生という幼さでしたが、経験豊かな指導者からムヨンや声楽、 民族楽器を習うことができたことを、今では大変ありがたく思ってます。

芸術代表団の北朝鮮訪問は結局実現しませんでしたが、代表団解散後もムヨン部の活動に加わりながら、伝統舞踊の稽古をし、更にはフェスティバルに参加したりと、幼いながらも舞台芸術活動に参加してました。

ところが中学に上がり、大好きだったムヨンをパッタリ辞めました。心の中に自分に敷かれているレールと制度に対する矛盾と葛藤があり、それに加えて思春期を迎えていたことも重なっていたのでしょうか、今思えば残念でしたが当時は続ける事ができませんでした。

”New Yorker”に掲載されたショット

でも、好きなものから遠ざかることはできないもの、しばらくしてディスコダンスに夢中になりました。ちょうど巷ではディスコが大流行りで、高校時代はどのクラブにも所属せず、ひたすらビージーズの曲を聞きにディスコ通いに暴走する毎日でした。

ブログのクラブ写真を眺めながら高校時代を懐かしみ、もし高校時代に現代舞踊部があったら、きっと学生時代に満開の花を咲かせて満足できたのではないかと、つい残念がったりもします。

本場のモダンダンスに魅了される

高校卒業後は、親の勧め通りに就職しましたが、心底やりたい仕事ではなかったので、正直言って身が入りませんでした。

次第にフラストレーションが溜まってしまい、そんな時は買物等で憂さ晴らしをするような日常を送ってました。やりたい事が解らず、心の中がもやもやしていた時期でした。

そんな時、たまたま職場に観劇好きの先輩がいて、誘われるがままアングラ劇場に通い始めました。劇作家で芥川賞を受賞した義理の叔父が率いる劇団員との交流も手伝って、とうとう3年間務めた総聯組織の仕事を辞めて、舞台芸術学院の夜間部に通い、現代舞踊の舞台活動に専念することになったのです。

1970年代、アメリカから来日していたアルビン・エイリー、トワイラ・サープ、ビル・T・ジョーンズのダンスカンパニーの公演を観る機会があり、アメリカのダンスカンパニーに所属していた日本人ダンサーと身近に接することができました。

Photo taken by Ellen Crane 

それぞれのダンスカンパニーの公演は、観る者に強烈なインパクトを与えるものでした。黒人のパワフルな魂の踊り、サープの斬新なアイディア、ビルの粋なポップダンス、どれもこれも独創的なダンス作品で、過去に体験したことのないようなダンサー達のエネルギーと、振付家の斬新な想像力に私の胸は躍り、アメリカで本格的にモダンダンスを学びたいという衝動に駆られました。

日本では、公演のたびにチケットを割り当てられセールしなければならず、売れ残った分は自己負担をしなければなりません。ところがアメリカでは、出演料はもとよりリハーサルに対しても支払われるというプロフェッショナルな姿勢があり、ダンサーへの対応に大きな違いがあることを聞きました。

また日本では在日という立場での活動に制約がかかることへの不満と、今述べたような日本のシステムにうんざりしていたこともあり、アメリカ行きへの夢は次第に強くなっていきました。

日本を飛びだし、憧れの街ニューヨークへ

そして1985年の夏、バレーのトウシューズを脱ぎ捨て裸足で踊ったというイサドラ・ダンカンの生まれた国アメリカ・ニューヨークの街を目指して3ヶ月の滞在予定で日本を飛び出しました。

世界中のあらゆる国々から、様々なバックグランドを背景に抱えた人々がやって来るニューヨークという街は、まさに人種の坩堝で、言葉がわからないハンディを抱えていながらも、なんの違和感もなく馴染むことができました。

在日韓国人としての立場を、意識的に、あるいは無意識的に隠しながら育った、日本社会での日常体験とはまるで違っていたのです。誰からも気にも留められない開放感と、見るもの聞くものが全て目新しい環境への興味とで、あっという間に時が過ぎていきました。

予定通り3ヶ月で日本に戻ることなどできるはずもなく、早速ビザの更新手続きをし滞在期限を延長した私は、モダンダンスのパイオニアと知られるマース・カニンガムのダンススクールよりスカラシップを得ながら、毎日ハードなトレーニングに励みました。

Photo taken by Ellen Crane 

ダンスばかりか、アート、音楽の世界でも才能あるアーティスト達が多く住んでいるニューヨークはとても活気に満ちていて、日本では考えられなかった経験と、さまざまな人々との出会いに恵まれて、随分成長させてもらったと思ってます。

最初の頃は言葉が通じない苦労もありましたが、それがかえってプラスになったことも多く、無駄口をたたくことなく、ひたすら訓練と稽古に集中することができました。また受け身になって人から教えてもらうことに満足せず、自分で気づいて勝ち取っていく、そんな心の鍛えがあり、過程でした。

Photo taken by Ellen Crane 

こんなこともありました。8年間住んでいたアパートのオーナーから、ある日突然「1ヶ月以内に出て行くように」との催促があり、急いで住む場所を探さなくてはならなくなりました。

友達に相談したところ、8年間も住んだのだから急いで出て行かなくてもいい権利が私にあると法律上のアドバイスをもらいました。英語でやり合えるほど喋れなかったので、友達が代わりに大家さんと交渉してくれたのですが、相手は断固として譲らず激しい口論となりました。

この時大家は、私をイリーガル滞在者で簡単に出せると思ってたのでした。寒い真冬のことでしたので、暖房を消されてしまうなどの意地悪をされたのは、嫌な思い出です。

パフォーマーとして新たな人々との出会い

日一日とダンスのレッスンとパフォーマンスの経験を積み上げていくうちに、日本で観たビル・T・ジョーンズのダンスカンパニーの主役ゲストアーティストとして、パフォーマンスツアーに参加することになりました。

ビル・T・ジョーンズ

ケネディーアワード、トニー賞も受賞するなど、アメリカの振付家として幅広く活動し、世界に知られるようになったビルと同じステージで踊るチャンスに恵まれたことは、私のとってとても幸運でした。

その半面、昨今話題の”ボヘミアン・ラプソディー”の主人公フレディー・マーキュリーのストーリーは、まるでビルのパートナーのアニーや、彼のカンパニーで一緒に踊っていたデミアンを彷彿させるようで、そんな悲しい出来事も経験しました。当時、エイズで亡くなった知人は少なくなかったのです。

ビルを知るきっかけとなったルビーシャングダンスカンパニーとの共演では、野外でのパフォーマンスやテレビ番組の録画撮り、日本での撮影、利賀村フェスティバルのパフォーマンス等を思い出しますが、実に良い経験でした。

PBS13 チャンネル “Live From Off Center “ の日本での撮影現場で

このカンパニーのゲストアーティストだった麿赤児さんの舞踏団大駱駝艦に交じって、全身を白塗りして撮影に参加し、舞踏の東洋的な表現を身近に体験できたことは、私の新たな表現形式を産み出すうえで大きな肥やしになっています。

私はまた、90歳という年齢になっても海外で踊って、世界の人々に感動を与えた舞踏家で、踊りの指導者だった大野和夫さんの踊りと思想に影響を受けました。

中国政府からダンスの研究員としてアメリカに来ていた、中国人男性舞踊家のジンシンとの出会いも忘れられません。彼は撮影プロジェクトで一緒に参加したダンサーでしたが、中国に帰った後”カルチャーレボルーショナリー”とマスコミに取り上げられるほど有名になった人で、それから10年後、自ら舞踊団を率いて、一緒に踊ったジョイスシアターに、なんと女性として登場したのでした。

思い出話の中国人ダンサーと楽屋で

お母さんが朝鮮人だったので、朝鮮語で会話を交わしあえたという彼が、性転換をしてニューヨークに戻ってきたのです。その時ジンシンは「優美な朝鮮舞踊を世界に知らせたい」と語ってくれました。

またこんなこともありました。
これは麿赤児さんと多賀フェスティバルで共演した時の出来事。舞台の周りに水を張り、ちょうど池の中にステージがあるように造られていたんですが、麿さん、開演5分前にその池の中に落っこちてしまったんです。

麿赤児さん

出番待ちで楽屋で待機していた私達は麿さんに何があったのか分からず、ただズボッーと全身ずぶ濡れで立っている麿さんを見て大笑い。麿さんの豹変した姿がとにかくおかしかった。急いでドライヤーで衣装を乾かしてのパフォーマンス、今でも楽しい思い出です。

生まれて初めて選挙権を得て投票する

ダンス関係のみならず、周りには、生死をかけてアメリカに移住してきた人たちの体験談も良く耳にしました。

軍事体制下のチリ政府に対抗したことで酷い拷問を受け、命からがら逃げてきたというチリ人夫婦の恐ろしい話、また戦火の中、就寝時もすぐに逃げられるようにと、ベットの下に靴を置きながら、日常を送っていたというアルバニア人夫婦は、船で難民として入国してきました。

弟の軍隊参加を避けるため家族総出で、家や職、生活のすべてを投げ捨てて移住してきたというブルガリア人の涙ながらの苦労話など、それぞれの移民達のストーリーがあり、複雑な国の歴史と個人史を抱えてやってきています。私自身もやはり在日の境遇を経てきた一人です。

ですがニューヨークのダンス界は、そんな私を素直に受け入れてくれました。グリーンカード取得のための応援やサポートもしてくれました。そのお陰で今こうしてしっかりとした生活基盤をニューヨークに固めることができ、その後市民権も得て更に深くアメリカ社会に溶け込んでいくことができました。

そればかりか、生まれて初めて選挙権を得て投票することができました。このことは私にとって、とても重要な出来事でした。私の意識に大きな変化をもたらしてくれました。

日本にいた時には自覚したことのない一市民としての責任と権利に対して、まったく新しいスタンスを持ち得て、この国における社会問題と課題に目を開かされる貴重な体験でした。おかげで最近我が家の食卓では、2020年のプレジデンシーに向けての会話で盛り上がることが多くなってきています。

最近撮ったパフォーマンス写真

チャンゴのリズムを聞く度に、腹の底が震えあがるような感覚と、韓国朝鮮文化に触れる度に感動し、そして生まれ育った日本への愛着を持ちながら、地球人としてのアイデンティティーを軸に、人種の隔たりや国や民族の歴史を乗り越えて互いに調和して生きることができれば、ここにいる意味があるかな、と思います。

今回の最初で最後になるであろう還暦祝いの同窓会には、そんな個人的な願いと希望を秘めて参加しますね。

最後に、忘れられないダライラマの言葉を付け加えて、私の個人的な回顧談を終わらせていただきます。

Whether  you believe in God or not does not matter so much , whether you believe in Buddha or not does not matter so much;
as a Buddhist, whether you believe in reincarnation or not does not matter so much,
You must lead a good life. And a good life does not mean just good  food, good cloths, good shelter. These are not sufficient.
A good motivation is what is needed: compassion,without dogmatism,without complicated philosophy;just understanding that others are human brothers and sisters and respecting their rights and human dignity”

Thank you for reading my story!!